本書は「蒲団」と「重右衛門の最後」の2作品を収録している。
文学作品としては「蒲団」が有名である。
自らをモデルとして、若い女弟子に恋い焦がれる中年男の煩悶を赤裸々に描写している。
中年男としては身につまされますな。
しかし、もう一つの収録作品の「重右衛門の最後」の方が読後感は深い。
作者である「自分」が信州の山奥にある友人を訪れて、見聞したことの記録という形式である。
主人公の重右衛門は、生まれつき腸が下がっていたため、睾丸部が大きいという障害があった。走っても遅く幼少時から周囲にからかわれていた。
ずっとそれを気にしていたため、強い劣等感を持ち、長じて後は世を拗ねてしまう。
素封家であった生家を放蕩を尽くして潰してしまい、罪を犯して刑に服してからは、村中をたかって歩き、迷惑をまき散らしている。
強がりを言うのは、虚勢を張ることでしか自分という存在を見つけることができないからである。
ただ酒をあおりながら、周囲を罵ることしかしない。
「...何が...この村の奴等...この藤田重右衛門に手向かいするものは一人もあるめい。こう見えても、この藤田重右衛門は...」
と腕でも捲ったらしい。
「何も貴様が豪(えら)くねぇと言いやしねえだア、貴様のような豪い奴が、この村にいるから困るって言うんだ」
「何が困る...困るのは当たり前だ。己がナ、この藤田重右衛門がナ、態々(わざわざ)困るようにして遣るんだ」
「難有い(ありがたい)[ママ]、そう仰って下さる人は、貴郎ばかり。決して...決して」と重右衛門は言葉を涙につかえさせながら、「決して忘れない、この御厚恩は!けれど私ア、駄目でごす。体格(からだ)さえこうでなければ、今までこんなにして村にまごまごしているんじゃ御座せんが...。私は駄目でごす。」と又涙をほろほろと落とした。
あんな弱い憐れむべき者を村では何故あのように虐待するのであろう。元はと言えば気ばかり有って、体が自由にならぬから、それであんな自暴自棄(やけ)な真似を為るのであるのに...
それからもう七年になる。(村人が自分を訪ねてきて)「..あれからはいつも豊年で、今でア、村ア、あの自分より富貴に為っただ」と言った。そして重右衛門とその少女との墓が今は寺に建てられて、村の者がおりおり香花を手向けると言うことを自分に話した。
田山花袋とは、名前は知っていても読んだことはない数多くの作家の一人ですな。
従って書評などできないので、isiのコメントを読んでの感想。
よく犯罪者の言い訳として、育った環境が悪かった・学校でいじめられたから、といったようなものがあるが、重右衛門も似たようなものなのかな。睾丸がでかくていじめられた人が全員世をすねた訳でもないだろうし。
死者の祟りや復讐をおそれるのはキリスト教でもあるけど、キリスト教が神の力をつかって悪霊を退治するのに対して、日本は悪霊を滅ぼすのではなくて、神の一人として崇め奉ることで静かにしてもらう。一神教と多神教の違いかな。
重右衛門と少女は、その死後、菅原道真みたいな扱い方をされたが、田山花袋としてはそうすることで二人を成仏させようとし、村人の罪悪感をも救おうとしたのかな。
「蒲団」は、中年に差し掛かったオヤジとしては、ナカナカ身に染みるものがありました。
一読オススメ。
世を拗ねる者っては、各々事情があるだろうけど、事情があれば世を拗ねるワケではありませんな。
同情には値するけど、だからといって許されるわけではない。
田山花袋は、それほど崇高な志で書いたわけでは無く、文学の素材として実話をネタにしただけでしょう。
職業柄、小売業界のトレンドも受け売り程度にわかりますが、団塊の世代と団塊ジュニアの世代の中間世代(40代から50代前半)は、「コヤジ」や「LEON世代」と言われて、購買力が高いと言われてます。
「コヤジ」は「コジャレたおやじ」、「LEON」は主婦と生活社発行のおしゃれな男性誌。
ドン・キ○ーテも「これからは、コヤジ世代向けの商品構成にする」と吼えてました。
「蒲団」は読んでみるけど、今のトレンドでは、中年であることを身につまされる人たちばかりではないみたい。
青春、朱夏、白秋、玄冬というが、中年は朱夏ではなくて白秋なんだろうか。
Posted by: 今週は忙しいはたらくおじさん : 2005年05月10日 23:32「コヤジ」かぁ。マーケッターは色んなカテゴリーを考えますな。
しかし、商業主義に乗っかってしまうのは、成熟したオヤジとは離れた位置にあるのではないかと思います。
相応に年を取りながらも好奇心を失わずにいたいものです。