長岡アジア映画祭で上映されている「アフガン零年」を見てきました。
父や叔父など一家の男性をみな戦争で失った少女は、貧困の中・祖母・母親と3人で暮らしている。女性が身内の男性を同伴せずに外出すると刑罰が加えられるタリバン政権下で、男性がいないということは、仕事に出ることもできず生活の糧を失うことを意味していた。母親は、少女を少年の姿に変えて働きに出すことを思い付く。「ばれたら、タリバンに殺される」と泣きじゃくる少女を、祖母は“虹をくぐると少年は少女に、少女は少年に変わり、悩みが消える”という昔語りの話でなだめながら、そのおさげ髪を切るのだった。
少年の姿となった少女は、死んだ父親の戦友だったミルク屋のもとで働き出すが、ある日、街のすべての少年がタリバンの宗教学校(マドラサ)に召集されることになり、少女もそこへ連れて行かれてしまう。コーランの授業、身の清め方。少女は、必死の思いでひとつひとつをやり過ごすが、やがてまわりの少年たちに「女だろう」と怪しまれる。「男なら名前は何と言う?」と少年たちに囃し立てられる少女に、少女をよく知るお香屋の少年が助け舟をだす。「こいつの名前はオサマだ」。しかし、その騒ぎに気づいたタリバン兵が、少女を井戸に吊るし、罰を加える。恐怖による衝撃から、少女に初潮が訪れた。少女であることが暴かれ、ブルカを被せられて牢獄に入れられた少女は、やがて宗教裁判の場に引きずり出される---。
重くやるせない話でした。エンディングも救いようがない現実のままです。
ため息が出るぐらいのレベルじゃなく、やり切れない思いが残ったままとなります。
今現在でも、アフガニスタンでの悲劇は続いているのだというメッセージを強く感じます。
特に社会的に弱い立場である女性たちは、悲惨な状況にあるのです。
当初、この映画は『虹』というタイトルでした。監督は脚本通り、少女が希望の象徴である虹をくぐり、自由と希望に向かうラストシーンを撮影しました、しかし編集中、戦時下を思い出すたび涙の止まらなくなるマリナの姿を繰り返し映像の中に見た監督は、悩んだ末に虹のシーンを全てカットしたのです。「アフガニスタンの悲劇はまだ終わっていない。今虹を書くのは嘘になる」という監督の思いが込められた新しいラストシーンは、泣くことすら出来ないアフガンの悲しい現実を痛いほど切実に物語っています。上映後、長岡国際交流支援センター長の羽賀さんによる講演がありました。